富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
6.考察編
(4)墓所の築造過程
 
(1)初代から五代
長岡御廟所には11基の藩主墓が築造されており、参道部に寄進燈籠が配置されていることが大きな特色です。初代利次墓築造の際に東西方向の直線参道を新設して以後、追墓のたびに参道の路線変更が繰り返され、最終的に「重臣ヨリ献灯姓名録」の形になりました。「重臣ヨリ献灯姓名録」をみると、参道は屈曲が繰り返され、新たな追墓の際に参道を途中で変更した結果、複雑な経路となったと考えられます。

ここでは、参道の変遷を復元することで、藩主墓の築造と造墓意識について考えてみます。

1.初代利次墓の築造(図1)
利次墓は、斜面を登った現在の鳥居の位置を基点として、そこから西方向に直線的な参道を伸ばし、48間半(87.5m)先に方形墳墓を築きました。
墳墓の周囲には、当初土塁が存在しました。その規模は、東西18間半(33.6m)、南北は「重臣ヨリ献灯姓名録」から復元すると14間(25.6m)の大きさになります。
正面中央には門が置かれ、墳墓正面端から門までの墓道は11間半、門から鳥居までの参道は37間(66.6m)の長さとなります。
参道のちょうど中間の位置(18間半)の南側には手水鉢が置かれました。ただし、これが当初からの位置かは不明です。
絵図では参道の両側に土塁が築造されています。
このように、墓所の区画は、参道基点から墓所端までの全体の3分の1の大きさに設定されていることがわかります。

2.二代正甫墓の追墓(図1) 
二代正甫墓は、初代利次墓からみて右側となる北群墓所に置かれました。その参道の方向は101.6度の角度があり、直交してはいません。
参道の交差する地点は、利次墓参道の中間地点であり、その南側には手水鉢が置かれています。これが当初の位置か不明ですが、正甫墓が追墓された時にこの交差部へ移動された可能性があります。元の位置は利次墓道起点の井戸付近と推定されます。
参道交差部から正甫墓墳墓までは45間半(82.7m)で、利次墓参道より3間短くなっています。

3.三代利興墓の追墓(図1) 
三代利興墓は、北群墓所にあり、二代正甫墓の東側に隣接します。
現在七代利久墓と並んで小さな区画を構成していますが、この区画は正甫墓のある西側の区画より北に後退しています。これは、正甫墓と同じ角度で、同じ距離に墓を作った結果といえます。
このような位置関係などからみて、三代利興墓の築造は、二代正甫墓の位置を強く意識して場所が決められたといえます。正甫墓の参道は、利次参道の中間地点を起点としたのに対し、利興墓の参道は、利次墓参道の起点、すなわち鳥居を起点としており、計画的な造営意図が見えます。

4.四代・五代墓の追墓(図2)
四代利隆墓は、初代利次墓の南に築造されました。墳墓前面は利次墓前面と同じです。五代利幸墓は、初代利次墓の北側にやや離れて築造されました。墳墓前面は利次墓・利隆墓前面より半間手前に置かれました。
四代利隆墓参道は、墳墓前面から33間東に延び、手水鉢の手前側で90度折れて利次墓参道と交差します。
このような構造からみると、四代墓・五代墓は、利次墓本体と正甫墓参道を意識して築造されているといえます。
(古川)
初代から三代藩主墓の築造過程
図1 初代から三代藩主墓の築造過程
四代から七代の参道の変遷
図2 四代から七代の参道の変遷