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長岡御廟所は、富山城の北西約3kmの呉羽丘陵北東部にあります。ここでは、長岡御廟所の造営にあたって、この場所が選ばれた理由を考えてみたいと思います。 |
これまでその理由として次のようなことが指摘されていました。
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寛永16(1639)年、富山藩の初代藩主となった前田利次は、婦負郡の百塚に新城を造ることを許可されていた(百塚は長岡御廟所の北東700m付近に位置する地区)。
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百塚築城がすぐにできないので、利次は完成までの間とりあえず富山城を借城した。
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しかし、百塚築城は財政的にも叶わず、万治3(1660)年、結局富山城を正式な居城にすることとなった。
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延宝2(1674)年に利次が亡くなると、子であり富山藩二代藩主の正甫は、百塚築城を果たせずに亡くなった父を、百塚に近いこの場所に葬り、以後歴代藩主の墓所となった。
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百塚築城予定地の近くが選ばれたとするこの説は可能性が高いと考えられます。この場所が選ばれた理由を少し掘り下げて検討してみます。
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長岡御廟所がある台地から南東方向は視界が開け、富山城周辺を望むことができます。富山城からも御廟所のある台地を見ることができたでしょう。富山城方向を眺めることができるのは、寛永元(1624)年から行われた「牛ヶ首用水」の切り通し工事により、御廟所南東の丘陵が開削されたためと考えられます。
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一方、北東方向も遠くまで眺望がきき、ここから見通せる先に百塚地区があります。つまり、長岡御廟所は、居城となった富山城と本来の築城予定地であった百塚の両方を眺めることができる場所につくられているのです。
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こうした眺望の良さに加えて、この付近は比較的平坦な台地地形が広がっており、造成が容易であったということも条件に適していたと考えられます。 |
(野垣) |