富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
6.考察編
(3)墓標笠部による藩主墓の変遷
 
墓標笠部から藩主墓の変遷を見ると、大まかに初代→二・三・四・五代→六代→七・八代→九代→十・十一代と変化するようです。初代墓の笠は特殊な形をしていますが二代以降はすべて唐破風形式で、破風板の反り方や懸魚・獅子口の大きさなどが変化します。ただし、細かい表現などを見ていくと、十・十一代墓以外は全く同じ型式というわけではなく、藩主ごとに違いが見られます。

この変化をもたらした要因は、基本的には藩主の帰依した宗派によると考えられます。特に七代墓くらいまではこの影響が強いと思われます。初代は曹洞宗、二代は日蓮宗に帰依しており、墓にも大きな変化が見られます。二代から五代までは日蓮宗に帰依しており、墓も類似しています。次に大きな変化のある六代は曹洞宗に帰依しています。六代以降の藩主は曹洞宗と日蓮宗を交互に帰依します。七代と八代は異なる宗派に帰依していましたが墓の形は類似しており、この頃から宗派以外の要因が絡んでくるように思われます。

九代墓の変化は、九代利幹が加賀藩の支藩大聖寺藩出身であることが要因にあったと思われます。八代利謙には嗣子がなく、病に倒れた際に利幹を養子とし、利幹が家督を継ぐこととなりました。九代墓には他の藩主墓には見られない独自の特徴もあり、これも出身藩の違いによりもたらされたと考えられます。十代墓と十一代墓はほぼ同じ形をしていますが、十代利保は十一代利友よりも後に亡くなっており、利保の指示で同じ形になったのではないでしょうか。二人の没年は六年しか離れておらず、墓の造立年は明らかではありませんが、近い時期に造られたことは間違いないと思われます。

また、懸魚と妻壁の関係を見ていくと、初・二代の頃にはそれぞれ別々に表現されていましたが、徐々に双方の距離が近づいていき、六・七代頃には一体化します。これは城郭など破風をもつ建築物でも同様の変化を見ることができ、時期的な変化と言えます。
(小林)
 
初代墓墓標笠部 二代墓墓標笠部 三代墓墓標笠部
初代墓墓標笠部 二代墓墓標笠部 三代墓墓標笠部
     
四代墓墓標笠部 五代墓墓標笠部 六代墓墓標笠部
四代墓墓標笠部 五代墓墓標笠部 六代墓墓標笠部
     
七代墓墓標笠部 八代墓墓標笠部 九代墓墓標笠部
七代墓墓標笠部 八代墓墓標笠部 九代墓墓標笠部
     
十代墓墓標笠部 十一代墓墓標笠部  
十代墓墓標笠部 十一代墓墓標笠部