富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
2.御廟所の記録
(3) 古写真
 
長岡御廟所の写真は数枚残っており、その中で最も古い時期に撮影されたものが、『富山県写真帖』と『婦負郡志』の写真です(富山県1909年、富山縣婦負郡役所1909年)。明治42年撮影の『富山県写真帖』のものは、利次墓参道を東から写しており、『婦負郡志』のものは、北野義周が撮影したもので、極楽橋から真国寺、鳥居への参道が写されています。

『長岡の郷土史』(長岡の郷土史編さん会1966年)に、利次墓参道を東から写した写真が掲載されています。これは『富山県写真帖』のものとは別カットです。撮影時期は、明治42年から昭和41(1966)年までの間と考えられます。

『富山市史』には、初代利次から十一代利友までの墓碑拓本が写真で掲載されています(富山市1960年)。この拓本には、「院殿大居士」のように仏式で書かれており、長岡御廟所にある墓碑は明治初期に仏式から神式に改められているため、それ以前の拓本であることが分かります(富山市梅沢町大法寺所蔵)。

真国寺には、「極楽橋より見たる真国寺」、「長岡御廟内薬神 前田正甫公御墓」の2枚の古写真があります。明治18年から戦前までの間に撮影されたと思われます。

「極楽橋より見たる真国寺」は、橋から左手のほうへ上がり真国寺へと至る斜面道が見え、本堂の下には、板塀のある広場が見えます。真国寺の永田円了住職によれば、写真に写っている橋は地獄橋であり、広場は射撃場のあった場所だということです。

「前田正甫公御墓」の写真は、正甫墓参道を南から写したものです。この写真を見ると、正甫墓の前に寄進燈籠が並んでいるのが見え、これを「重臣ヨリ献灯姓名録」と比較したところ、配列、数が一致しました。明治18年と変わらない姿を写したこの写真は、北群の最終形態を示す唯一のものとして貴重なものです。 
(蓮沼)

 
極楽橋より見たる真国寺 
極楽橋より見たる真国寺
   
前田正甫公御墓 
前田正甫公御墓