富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
2.御廟所の記録
(1) 古記録
 
長岡御廟所に関する古記録は、かなりの数が残っていますが、築造について詳細を記した資料はありません。

『前田氏家乗』(新田二郎編1988年)には「御柩を富山に奉送し婦負郡長岡山に御墓所を設け葬儀あり」という一文があり、初代利次の死去に伴って長岡御廟所が築造されたことがわかるのみです。他の古記録の大部分は、参詣に関するもの、管理・運営に関するものなどです。

『吉川随筆』(新田二郎編1988年)において「長岡御廟」という文字が最初に出てくるのは、延宝8(1680)年7月、初代利次の七回忌の時です。「長岡御廟にて施餓鬼」とあり、香典として加賀守が銀十枚、富山藩主と飛騨守がそれぞれ銀五枚を出しています。また、参詣に関しては、「同十五日(天和3(1683)年7月)長岡 御廟え 御参詣御供面々白帷子布上下着直に明神之御亭え被為入候」という一文があり、長岡御廟所へ上下ともに白い着物で参詣していることがわかります。同年7月1日に二代藩主正甫の二女蘭子が死去しているため、それに関する参詣であったと思われます。

長岡御廟所の修理については、同じく『吉川随筆』に次のように書かれています。「同晦日(宝永5(1708)年8月)来月三日より長岡御普請有之に付與外組目付一人宛相詰候様御寄合所より被 仰渡候」と普請を予定していることがわかります。これを受けて「同十二日(宝永5年9月)今日土用間日に付御廟所御普請相始」とあり、予定より9日遅れで着工しました。

この普請は、二代藩主正甫が宝永3年4月19日に死去してから、約2年半を経た時点であることから、三回忌へ向け、普請完了を目指したと考えられます。


その他、参詣に関するものとしては、『外勤留』(富山県立図書館所蔵、前田文書88)があり、その中の「十四 長岡御廟参御先番向之事」、「十五 長岡江御代香之節之事」などの項に、御先番勤方や御代香勤方などの役割などが詳細に記されています。

また、管理・運営に関するものとして、『町吟味所御触留』(高瀬保編1992年)に「長岡御廟の境内へ無用の者立入禁止につき申触書」(寛政8(1796)年)が発布されており、木の伐採を禁止する項目もいくつか見られます。現在、墓所入口の鳥居の横にある石標には墓所内での禁止内容が明示してありますが、その書き方から明治期以降に建立された可能性が高いと思われます。
(蓮沼)