『富山考古学会 連絡紙』第39号 昭和46(1971)年4月8日発行

呉羽町小竹貝塚の発掘調査

小島俊彰
 
小竹貝塚の発見は、昭和30年頃であった。高瀬保氏は(富山北部高校教諭)が近の人々から聞きこみ、確認されたのです。その後岡崎卯一氏などの調査もあって、地下数米にねむる大貝塚として注目されていたのでした。

ところが、昨年夏この小竹一帯で圃場整備作業が進められ、しかもこれとともに承水路(排水路)と用水路が掘り始められていた。遺跡の真上を通るぞというので、富山市が岡崎氏・高瀬氏・小島等を調査員とし、小杉高校地歴クラブの応援を得て、数グリットをあけて分布調査を行ない、その後県教委も同じく分布確認の調査を行なった。結果は、貝塚自体に用水路・排水路がかかるか否かは不明だが、同じく前期の遺物包含地域を破壊分断することになることが明らかになった。

その後は県教委が中心となり、用水・排水路の迂回交渉が進められた。「今までなにもしないで工事が進んだ今何を言うのか」これが地元の声であった。交渉に当たっていたT・Hは苦慮しがんばった。しかし交渉は進展せず、今年2月をむかえた。「今年も苗代をつくらなくちゃいけない。田植えもやらなければならない。用水を早く通さなければならない。工事を進める」というわけで、県教委は 発掘せざるを得ない。一案として、発掘しないということも考えられもしたが、それによって生まれてくるものは何なのか。何もないのではないか。やはり早急に少しでも調査すべきだと考えたのであった。

今次壊される遺物包含地は、20m×30mと予想され、工事もこの部分を残していた。深さは1m強、湧水が激しく、移植ごてや竹べらなどによる作業は全く不可能であった。結局は土をベルコンに乗せてトレンチ外に出し、その運ばれた土を手でにぎりつぶすようにして遺物をさがすという風で、これをグニョグニョと私達は呼んだが、この作業はおもに大谷技術短大生諸君によって進められた。

遺物は多い。これは見ていただかなければ本当にはわかっていただけぬと思うが実に多いのである。前期中葉から後葉の資料を中心とし、一部繊維土器もあるようだ。石器も多い。

調査予定期間の後半になって、発掘地から数十米離れた他の地域で、今まで止まっていた排水路掘削の工事が再開された。ところがパワーシャベルの引きあげている土砂の中に白い貝がある。ここにも貝塚があったのです。パワーシャベルは次の日も動いた。しかし誰も、これを止められなかった。止めても次の展開が考えられなかったからであろうか。断面に出た土層や貝塚のセクションとりと遺物の採集を、あきらめの気持で進めた。この作業中、人骨も発見されたのです。土器はもちろん、獣骨・魚骨などの自然遺物も多く、特に骨角器の多さには驚いた。普通の遺跡からは、骨角器などの発見はまずない。だから私などは頭のどこかに骨角器についての意識はあっても、ついつい忘れてしまっている。ところが、この貝塚の遺物を見て、彼等縄文人の生活はそんなに単純なもんではないと今更のように考えさせられた。

幸い(?)にも、貝層は途中で浅くなりつつ消えていった。しかし、まだ貝塚は広がっているのであろう。県下に残る唯一の貝塚・裏日本でも一二の規模を誇る大貝塚という意味も加えて、保存対策が必要である。圃場整備作業などによる破壊は、小竹貝塚では今一段落している。次にくるものは、宅地化である。

発掘調査をやるという連絡を皆さんにすべきであったが、係りの怠慢で出来なかったことをお赦し下さい。詳細な調査経過や結果などは、例会で報告したいと思います。遺物は、県委が分庁舎で整理を行なっていますので機会があれば見て下さい。人骨は、林夫門氏の許へ行っています。

最後に、人夫さんとして連日の降雪の中を出て下さった地元の人々、アルバイトとしてではあったが厳寒の中ふるえながらも最後まで献身的に調査に当たってくれた大谷技術短大の諸君にありがとうと言って置きたい。

(富山考古学会承認済)