『富山考古学会 連絡紙』第39号 昭和46(1971)年4月8日発行

富山県呉羽町小竹貝塚調査メモ

邑本順亮
 
1971年3月6日(土曜日)、小島氏より案内いただき発掘現場へ行き10時から13時にかけて見学と採集を行なった。
貝は明かに人為的に捨てられたものとわかるたまり方で厚いところは30cmから50cmにわたり密集している。貝の種類は次の通り。
 
1. ヤマトシジミガイ Corbicula japonica prime
  全国の河口や潟などの汽水域に生息している種で食用になっている。この貝塚では最も多い。
   
2. マシジミガイ? Cobicula(Corbiculina)leana PRIME
  採集した中にマシジミガイの形態に似たものがごく希に混じるがヤマトシジミと区別できるかどうかわからない。ヤマトシジミガイは全国に分布する淡水種で食用となっている。
   
3. オオタニシ Cipangopaludina japonica(V.MARTENS)
  本州から九州にかけての湖沼や河川にすむ。(淡水棲)ここの貝塚では下層部(?)にこれが多いようにみえる。
   
4. ドブガイ? Anodonta(Sinanodonta)woodiana(LEA)=A.lauta(V.MARTENS)
  貝塚ではヤマトシジミガイ、オオタニシにまじって真珠層のみがかなり含まれている。これだけでは貝の種名はきめかねるが随伴種や現在の環境から考えてドブガイと推定される。
   
貝の内面に付着していた泥の中の珪藻を検鏡(予察)してみたところつぎの種を検出した。
Cos cinsdiscus radiatus EHR.?(Fragment)
Diploneis puella (SCHUMANN) CLEVE
Hantzschia amplisxys (EHR.) GRUN.
これらは現在の放生津潟や十二町潟、あるいは富山湾沿岸の海底泥中に検出できる種であることから、貝塚形成後、直接海水の影響のある(海水が出入りする)潟や入江ができて、貝塚が黒色泥で覆われたと考えられる。当時は近くにヤマトシジミが生息する潟があり、オオタニシやドブガイがいる沼沢地が点在していたと考えられる。

ここから出た貝殻の年代が前に測定されている。その結果は4800±200Y.B.P(G a K536)すなわち 285D.B.C(渡辺直経1966年)である。

藤則雄(1965年)は、小竹貝塚の貝層及びその上位層の花粉分析を行った結果から、貝層に含まれる花粉が Quercus (Small size)を主とする温暖系要素がかなり多く含まれることを指摘している。そして更に射水平野冲積統と海棲貝類、珪藻遺体の包含されるhori-zonを平面図で検討して、当時の海岸線を描き、今市から布目の砂州と柳瀬から鷲塚の砂州にはさまれた入江の奥に小竹貝塚とか蜆森貝塚が存在したことになると結論している。

筆者はかって射水平野の冲積層のボーリングコア中の化石珪藻を検討し、現海抜-7mから-5m付近にかなり広く古放生津潟が広がり、かつ海水の流入の著るしい時期を考え、その後は、淡水の影響が強くなり海水の流入域は、現放生津潟とその南部の地域にせばめられていることを見出している。

一方、藤(1965年)は、小竹貝塚の高度と、当時の海水準(縄文前期、諸磯期)とを検討し、それ以後現在に至るまでの地盤沈下量を平均年2mmとしている。

(貝の種名については、同日午后現地調査した富山大学教養部地学教室の藤井昭二博士の助言をいただいた。)
 
本文中の引用文献(編集で追加しました)
渡辺直経 1966年 不明
  ただし、岡崎卯一 1966年 「呉羽町小竹貝塚の調査」『富山県放生津潟周辺の地学的研究』第V集に年代データが紹介されている。
藤 則雄 1965年 「富山県射水平野の冲積統の研究」『富山県放生津潟周辺の地学的研究』第U集 富山地学会
(富山考古学会承認済)