シリーズ縄文講座(17)
縄文人と「数字」認識
 
a.大型住居と縄文尺
北陸から東北の縄文時代前期後半から中期にかけて、大型の住居が築かれており、東日本の縄文時代の一つの特色となっています。それは、とりわけ青森県や秋田県、山形県の多雪地帯と重なる日本海沿岸地域で目立っています。
かかる大型住居は、昭和48(1973)年の朝日町の不動堂遺跡の発掘調査によって、日本で初めて発見されました。不動堂遺跡では、一般的な直径4mから5m位の円形竪穴に混じって長径17m、短径8mの小判形をした大型の住居跡(第2号住居跡)が営まれていました。長径方向に石組炉が4基、間隔を置いて設けられています。
大型住居跡【不動堂遺跡】
大型住居跡【不動堂遺跡】
出典:藤田富士夫 『縄文再発見』 大巧社 199年
不動堂遺跡第2号住居跡の柱穴は、全部で16個発見されました。直径約30cmの堂々たる柱痕跡を有し、通常よりも太い柱が建っていたことを示しています。柱の間隔を測ると35cmで割り切れる個所が多く認められました。このことから大型住居の企画には、35cmを基準とする「縄文尺」が用いられていた可能性を推定することができます。
岐阜県飛騨市(旧・河合村)の下田遺跡での縄文中期の住居を分析したところ、より大型を示す住居の柱間隔が35cmを単位とした数値で割り切れる比率が多くみられました。この傾向は、青森県の三内丸山遺跡でもみられます。このことは、家族単位で構築が可能な個人住居ほど企画が緩やかで、共同で構築し使用する大型の住居ほど企画が厳密であることを示しています。
長さの単位が決まっていれば、共同作業をする際に便利です。“「縄文尺」個分の柱を本切って運んでくる”といった、取り決めがあれば効率的な作業が可能となります。長さが決まっていれば、雪の荷重にも耐え得る丈夫な建物の構築も可能となる。これらの理由によって、縄文尺が登場したものと思われます。
 
b.縄文人の数字認識能力
ここに、「個分の柱を本」としました。個、本というからには、縄文人に確かな数字認識能力のあることが前提となります。青森県三内丸山遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の土偶や富山県早月上野遺跡の後期後葉の顔面土製品、秋田県大湯環状列石の後期の土版には、円形の刺突文であたかもサイコロの目やマージャン牌のピンズの配置のように、1に始まり最大で12までの自然数列が確認できます。これまで、土偶体部の円形刺突文は単なる文様としか認識されてきませんでしたが、意識して見ると、それが自然数列を成していることが明らかです。
青森県三内丸山遺跡の土偶
青森県三内丸山遺跡の土偶
富山県早月上野遺跡の顔面土製品
富山県早月上野遺跡の顔面土製品
出典 「縄文時代の自然数列に関わる「数字」認識について」『考古学論究』第11号 立正大学考古学会 2006年 (一部改変)
数学者である伊達宗行大阪大学名誉教授に、このことをお伝えしたところ「頭の中に数処理がすでにあって」、それが呪術具に投影されたものらしいとご教示をいただきました。1から12までが、自然数列として確認できるのは、伊達氏が説く「縄文人の十二進法」による数字認識の可能性を示唆します。
人類最古の数字認識の獲得は、約5500年前のメソポタミヤのシュメール人にあったと言われています。縄文人においても、5000年前に確実に数字認識の証拠を、ここに提示することができました。そのような数字認識を獲得した縄文人にとって、「縄文尺」の案出も容易であったことと思われます。35p長の単位で柱間隔が割り切れる現象は、決して偶然や、はたまた人体尺による産物ではなかったであろうと思われます。きわめて文化的な所産であったとすることができます。
北代遺跡の住居や炉跡、高床建物の柱間隔、呪術具についても、このような縄文人の数字認識の視点から意識的に検討すれば、必ずや新しい発見があるものと思われます。
 
参考文献
伊達宗行 『「数」の日本史』 日本経済新聞社 2002年
藤田富士夫 「雪国の大型住居に三五pの「物差し」」『朝日グラフ 完全記録三内丸山遺跡』 臨時増刊号 朝日新聞社 1994年
「縄文時代の類モノサシについて―下田遺跡をテーマとして―」 『飛騨と考古学』 飛騨考古学会 1995年
『縄文再発見』 大巧社 1998年
「縄文時代の自然数列に関わる「数字」認識について」『考古学論究』第11号 立正大学考古学会 2006