太田本郷城跡

上杉氏の拠点だった城
(富山地域)
   
太田本郷城跡は、富山市街地の南、いたち川沿いの立山道に面して築かれた平城ひらじろです。当初、いたち川べりにある刀尾神社の北側に存在すると推定されていましたが、平成3年に道路拡張に伴う発掘調査、平成12年に駐車場造成に伴う試掘調査を行ったところ、戦国時代の堀跡が検出され、城の位置が明確になってきました。

平成3年度の調査では、延長17.5m、幅1.8m、深さ30cmの堀跡を検出しました。東西方向で、堀底は平坦な箱堀です。堀底から3cmから20cmほど浮いた状態で、素焼きの皿(かわらけ)300点以上、レンガ、漆製品が出土しました。かわらけの中には、墨で文字や絵柄を書いたものがありました。文字は、太く達筆で書かれていて、「八月三十日」以外がほとんど読めないものでした。かわらけの年代は16世紀後半でした(「太田本郷城跡出土の墨書かわらけ」)
平成3年度調査の堀跡実測図
平成3年度調査の堀跡実測図
平成3年度調査写真
平成3年度調査写真
平成12年度調査では、南北方向の堀跡を確認しました。延長約70m、幅7.2mから10.5m、深さ1.2mです。断面はU字形で、堀底の幅は約2mです。堀の中からは、かわらけ・焼土・熱で割れた礫が出土しました。
 
各調査で見つかった2本の堀によってL字形に囲まれた内側には、平成12年度調査において、掘立柱建物の柱穴や、径1m以上の円形の穴などを確認しました。よって、そこは曲輪くるわの中であったことがわかります。
 
明治時代の地籍図に遺構を重ねると、2本の堀の方向と一致する地割が、東西130m南北140mの範囲にあり、東を流れる筏川いかだがわの支流もこの範囲の中では不自然な屈曲を繰り返しています。
以上の情報から、この城は、発掘で検出した堀に囲郭された曲輪Aと、南側の円光寺えんこうじを含む大きな曲輪Bの部分からなる2郭構造が復元されます。曲輪Bは、南方に対する防備を意識したものと考えられます。
 
16世紀後半にこの城は、越後上杉氏の重臣鯵坂あじさか長実が在城し、上杉の越中進出の拠点として位置づけられていました。元亀3年(1572)年舟倉の井上肥後守が2度にわたり本城を攻め、また天正6(1578)年織田方の八尾城生城主斎藤新五が南から攻め込んだことから、南に対する防御を固めていたと推定されます。
地割図から復元した城の構造推定図
地割図から復元した城の構造推定図
 
 
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『富山市内遺跡発掘調査概要]X』