開ヶ丘中山Vひらきがおかなかやまさん遺跡

縄文時代中期の集落跡を発掘!
(富山地域)
平成13年7月7日現地説明会資料から
 
調査の概要
富山市開ヶ丘地区は、富山市の南西端の射水丘陵上に立地し、標高は約70mを測ります。ゆるやかな尾根や谷など起伏に富んだ地形を利用し、縄文時代や奈良から平安時代に人々が生活を営んでいました。
富山市教育委員会では、県営畑地帯総合整備事業(呉羽射水山ろく地区)に伴い、当地区に所在する遺跡を対象に調査を行ってきました。
開ヶ丘中山V遺跡 遺構
平成13年度は、開ヶ丘中山V遺跡で縄文時代中期の集落跡、開ヶ丘中山W遺跡・開ヶ丘中遺跡で古代の炭窯などを検出しました。
 
 
縄文時代の集落 (縄文代時代中期前葉から中期 約4500年から5000年前)
発掘調査では竪穴住居4棟が検出されました。
1号住居
1号住居
2号住居、3号住居は、楕円形の平面プランです。2号住居は長径約6mを測り、3号住居は約10m以上の大型住居です。これらの住居の炉は、地面が焼けた地床炉じしょうろで、またロート状ピットと呼ばれる特殊な穴を持つという特色があり、縄文時代中期前葉のものです。
4号住居は、1号から3号住居の位置から西に約60mの所で検出されました。
楕円形の平面プランで、小型の石組炉を1基とロート状ピットを2基(切合い関係を持つ)持ち、中から深鉢などが出土しました。住居跡全体の規模は調査区外に延びています。また西側の住居の肩が後世の削平により検出できませんでした。
4号住居
4号住居
1号住居は隅丸方形の平面プランで、約2.5m×2.5mと極めて小さいものです。4本の主柱と2本の棟持柱むなもちばしらで骨組みを作り、中央に石で組んだ方形の石組炉があります。炉は一度作り直され、2回目はひとまわり小さくなっています。住居の廃絶後には土器などの廃棄がなされていました。類似した住居は大山町東黒牧上野遺跡に認められます。
また、1号住居内の北東の柱穴の基底部には礎石が置かれていました。この柱穴と南西の柱穴からクリの炭化したものが4点出土しました。
住居の炉の形態は、縄文時代中期前葉に地床炉から石組炉へと変化します。4号住居から見つかった炉は、石組炉が出現した初期のもので、野沢狐幅遺跡(立山町)、永代遺跡(上市町)とともに県内で最も古いタイプです。
これらのことから、住居は、2号住居・3号住居 → 4号住居 → 1号住居といった変遷をたどることができます。
 
 
出土遺物
竪穴住居の中などから縄文土器や土偶の一部、石おの、矢じり、石さじ、黒曜石こくようせき剥片はくへんなどがコンテナ箱に約50箱分出土しました。
縄文土器は、中期前葉の新崎式にんざきしきと呼ばれる型式の土器(平行隆起線文へいこうりゅうきせんもん蓮華文れんげもんを施文する)が2・3・4号住居から出土し、中期中葉を示す天神山式てんじんやましきから古府式こぶしきと呼ばれる形式の土器(渦巻文を施文する)が1号住居から出土しています。
また、中期後葉の串田新式くしだしんしきの土器も出土しており、遺跡は中期後葉まで存続していたものと思われますが、現在その時期の遺構は見つかっていません。 
 
 
その他の遺物
住居内やその周辺部からは、黒曜石を原材料にした石器や石器を製作する時に出る剥片が約30点出土しました。県内には主に中部高地(主として長野県霧が峰周辺)が多く用いられており、そこから運ばれてきたものと考えられます。当時それらの地域との交流があったことを物語っています。
また、4号住居内の土坑(ロート状ピット)からめのうの原石を四角くしたもの(約180g)が1点出土しました。他に磨製石斧が約7点出土しています。
 
 
関連項目
  開ヶ丘狐谷V遺跡 縄文の大規模集落の全容が明らかに
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
  開ヶ丘中山V遺跡 開ヶ丘中山W遺跡 開ヶ丘中山X遺跡 開ヶ丘狐谷遺跡 発掘調査報告書
  富山市教育委員会 2002
『開ヶ丘中山V遺跡 開ヶ丘中山W遺跡
開ヶ丘中山X遺跡 開ヶ丘狐谷遺跡 発掘調査報告書』