長山ながやま遺跡

土偶大量に出土
(八尾地域)
遺跡は富山平野の南端に位置する独立丘陵、「長山」に所在します。長山は南端で標高117.5mを測り、頂上には北西に向かって緩やかに傾斜する広い平坦面があります。旧石器時代から近世に至るまでの長い間人々の営みがありました。
現在は遺構が確認された南側部分が保存されています。旧石器時代の遺物集中地点、縄文時代から弥生時代の集落、中世の山城跡(長山砦)、近世の土取り穴・炭窯と多くの遺構が確認されています。ここでは縄文時代の遺構を紹介します。
 
6度にわたる発掘調査で、前期後葉(約4000年前)から晩期後葉(約2200年前)までの遺構・遺物があります。遺構には、前期後葉の住居跡1棟・穴、中期前葉の住居跡2棟・遺物廃棄場・穴・埋甕、晩期後葉の穴が確認されており、中期前葉が遺跡の中心的な年代です。
特徴として土偶が48点と多量に出土したことが挙げられます。1つの遺跡からの出土量としては県内最多です。土偶は妊婦を模した形のものが多く、子孫繁栄の願いをこめていると推測されます。また、体の一部がこわされているものは、その部分の怪我・病気が治るようにと願ったものと考えられています。
土偶
土偶 出典 八尾町教育委員会
 『長山遺跡発掘調査報告』1985年
 
土偶の形態は、脚が有り全身を立体的に表すものと、脚が無い板状の胴部のものとの大きく2つに分類されます。この中でも頭部に編み込みを表現したと思われる模様を巡らし、背中に三つ編みのおさげを1本垂らしたものは、縄文人の髪型を推定できる貴重な資料となっています。
 
土偶の製作方法は、体の各部分をブロック状に作った後で、それぞれにソケット状の差込みと差込み穴を設けて接続します。
 
また中期前葉には、深鉢を用いた埋甕が10基あり、すべて住居外に設置されています。埋甕の用途としては産後の始末(胎盤の処理)、乳幼児の埋葬等が推定されています。前者は住居の入口に埋めて、それを子供が踏むことで丈夫に育つことを願うという民俗事例から考えられている説であり、後者の方と推測されます。
 
量の土偶と埋甕、これらからは、ここが墓所であり、子孫繁栄や怪我・病気の治療といった生命への祈りの場でもあったと考えます。