城生城跡じょうのうじょうあと

交通・軍事上の要地に位置した城
(八尾地域)
神通川の両岸には古来より越中と飛騨を結んだ大動脈である飛騨街道が通っています。飛騨から街道を通ってきた旅人がようやく富山平野へと出ようとする、その眼前に城生城はそびえたちます。交通・軍事上の要地に位置するこの城は、越中を支配するためには重要な価値を持っていました。
 
城生城は神通川の西岸にあり、飛騨山地から続く丘陵地帯が富山平野につながる部分に位置します。南北約750m、東西約150m、主郭の標高は124mで、ふもととの比高差は約50mを測る独立丘陵全体を城域としています。この丘陵は東側を神通川、西側から北側を土川に囲まれているため、まさに天然の堀が三方にあることになり、南側からしか進入することができません。また山上には広い平坦面があるため物資の貯蔵、兵員の駐留が容易なことから、力攻めにも兵糧攻めにも耐えうる難攻不落の城となっていました。
頂上の石碑
頂上の石碑
 
築城者は、伝承では「寿永2(1183)年に城生城主越中次郎盛次が木曾義仲に攻め落とされた」とありますが、定かではありません。文和年間(1352から56)、斎藤常喜が楡原保(婦負郡南部一帯)を幕府から与えられてからは、天正11(1583)年に佐々成政に降伏するまでの約230年間にわたって斎藤氏が代々の城主でした。佐々氏が転封された後は前田氏の家臣が城主となり、江戸時代に入って間もなくして廃城になったと考えられます。
 
遺構の状況では、城の入り口があった南端部(全体の約2割)は土砂取りのため消滅していますが、残存部は良好に確認でき、大きく南北に分けられます。南側は空堀と土塁を重層的に組み合わせた防御施設で、塁線土塁や馬出しの配置から見て織豊政権の築城技術が取り入れられていると言えます。斎藤氏が技術を導入した可能性もありますが、佐々氏が改修を行ったものと考えられます。特徴として、カギ状に配置された二重の虎口及びそれを支える石積、主郭をコの字状に取り囲む巨大な空堀があり、かなり強固な防御が行われたと感じられます。
 
北側は周囲を断崖に守られた広い平坦面が広がり、家臣の住居、物資の倉庫として活用されたことがうかがえます。
 
昭和62年に市の指定史跡として指定されました。
大空掘   馬出しの土塁と堀につき出た櫓台
大空掘   馬出しの土塁と堀につき出た櫓台