|
1)出土した場所 |
|
縄文土器が大量に廃棄されている谷地形の斜面から出土しました。 |
|
|
|
2)土偶のつくられた年代 |
|
土偶が出土した同じ層から、縄文時代後期後葉から晩期初め頃(約3000年前)の土器が出土していることから、この時期につくられたと考えられます。 |
|
|
|
3)土偶の形について |
|
土偶は、北関東を中心に出土し信越方面にも見られるハート型土偶(後期前葉)、山形土偶(後期中葉)の系譜を引くとの見方もあります。長野県離山(はなれやま)遺跡出土のものが類似しています。ただ両者はつくられた時期が本遺跡より古く、今後検討する必要があります。
顔は目鼻立ちをはっきりと表現し、人間味を帯びた表情をしています。頭部には仮面にとおす紐のような表現を確認することができることから、顔面に仮面をかぶっている土偶のようにも見えます。 |
|
|
|
4)土偶の大きさについて |
|
残存長9.5cm、最大幅9.5cm
頭部のみの大きさでは県内最大、北陸最大級のものです。土偶の顔の大きさから土偶の全長を推定すると約38cmとなります(4頭身と仮定する)。
頭部のみの大きさからの推定ですが、県内で最大の土偶に復元でき、北陸でも最大級の土偶と考えられます。全国的に見ても大型の土偶です。 |
|
|
|
5)土偶の意義と遺跡の性格 |
|
土偶はほとんどが女性を表現しています。通常、こわされた状態で出土することが多く、完全な形で出土することは極めてまれです。
土偶は食物の豊穣のための祈りや魔よけ、子宝が授かるように祈る為などに用いられたと考えられています。今回出土した土偶は大型の土偶の頭部と考えられます。 |
|
|
土偶は大量の土器と共に出土しており、かなり大きな集落で大勢の人々が生活を営んでいました。この集落では大きな女神像の土偶を用いた祭祀が行われていたことが推定されます。 |
|
本遺跡の南方約500mには、縄文中期(約4500年前)の大集落である国史跡北代遺跡があります。本遺跡は北代遺跡の集落に後続する縄文時代後期から晩期を中心に営まれることから、当地域の人々が縄文中期から後期に生活の拠点を移した可能性があります。
土偶が大型化した背景には、北代遺跡のような大きな規模の集団を祖先にもつ集団にふさわしい大きさの土偶を製作し、祈りを行っていたということが考えられます。
形や文様は北陸の後期後半から晩期初め頃の典型的な特徴を備えたものですが、北関東や信越方面のハート型や山形土偶の流れを持つ土偶を製作する集団と何らかの関係があった可能性も考えられます。 |