安養坊砦跡あんようぼうとりであと

佐々攻略のための幻の砦か
(富山地域)
安養坊砦跡の遠景(富山城側から)
安養坊砦跡の遠景(富山城側から)
 
安養坊砦跡は、富山市街地の西の呉羽丘陵東斜面に立地し、遺跡から富山城跡が展望できます。下の平地とは60mの比高差があります。戦国時代以前には、神通川はこの直下を流れていたと推定されます。
測量調査により、丘陵頂上標高72mから40mにかけて、5つの小曲輪しょうくるわ空堀からぼりを確認しました。
A郭(37m×12m 350平方メートル)は旧富山市天文台があった場所で、5つのうち最も高い所にあります。B郭(5m×6m、50平方メートル以上)はA郭と連続する可能性があります。C郭(6.5m×13m、70平方メートル)は半円形状です。
AからC郭北側には尾根おねを切断するように空堀(長さ40m、幅8m、深さ1.65mから2.5m)があり、砦の北端の境界を示すものと考えられます。
D郭(12m×6.5m、50平方メートル)では戦国期のかわらけ1点が出土しました。E郭(7m×5m、40平方メートル)は最下位の曲輪です。
曲輪群・空堀の測量図
曲輪群・空堀の測量図
低い位置ほど面積が狭く、D・E郭は通路上に設けられた整地部分と考えた方がよいかもしれません。
この砦跡は、戦国末の砦を構成する曲輪・空堀と考えられます。
呉羽山最高峰城山山頂には、天正13年(1585)豊臣秀吉が富山城主佐々成政攻めを行う拠点とした白鳥城があります。この時、安田城・大峪城おおがけじょうの二つの出城が築かれ、前田利家家臣かしんが守ったとされます。利家が拠った砦が存在したとする史料もあります。『加越能三州かえつのうさんしゅう地理志稿ちりしこう』には、「東西二十六間南北十二間塁址尚存 」「天正十三年秋国祖命築砦于安養坊坂上」とあり、安養坊 坂の上に47m×21mの曲輪と土塁があったとしています。砦跡の位置は、これまで大正天皇野立跡とする説がありましたが、現在旧地形が大きく変化したため確認できません。
砦の候補地として、(1)県道富山高岡線北側の富山観光ホテルのある高所平坦面(50m四方)、(2)野立所から約200m北東に行った桜の広場平坦面(150m×30m)の2か所があります。いずれも富山城を眼下に見下ろせ、多数の将兵を置くには絶好の地です。
 
安養坊砦の置かれた直下を通る呉羽山越えの道は、江戸時代に富山と高岡をほぼ直線で結ぶ主要な幹道でした。戦国後期には国人寺崎氏が願海寺城・城下町をこのルート上に築き、交通を支配しました。安養坊砦に与えられた役割は、この主幹道の監視だったと推定されます。
戦国末期以前における呉羽山周辺の城郭と交通環境
戦国末期以前における呉羽山周辺の城郭と交通環境