富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
総曲輪そうがわ遺跡出土の墨書ぼくしょ土器「宅持やかもち
(Ink-inscribed pottery “Yakamochi”found from Sogawa site)
 

 
総曲輪そうがわ遺跡は、旧神通川右岸の河岸段丘上、富山城・城下町の下層に所在します。これまで、城址公園整備や中心市街地再開発、市内電車環状線化事業などに先立つ調査で、縄文時代中期から中世の遺物や遺構が見つかっていました。
総曲輪遺跡の範囲
総曲輪遺跡の範囲
 
墨書土器の出土状況
平成22年11月に城址公園の西の丸芝生広場南端の下水管敷設工事中に、地下2.3mまで掘り下げた土中から、奈良時代後期(8世紀第3四半期(750年から775年頃))の須恵器が出土しました。有台杯ゆうだいつきの底部に墨で「宅持」と書かれた文字が確認され、その横には、漆の付着物もあることが分かりました。
 
墨書土器出土地点
墨書土器出土地点
 
 
「宅持」の意味
富山大学鈴木景二氏のご教示によると、「宅持」は「やかもち」とみます。奈良時代に越中国守として赴任(746年から751年)した「大伴家持おおとものやかもち」を連想しますが、ここに書かれた文字の人物は一般的な人名と考えられます。
 
奈良時代の人名には、「小治田朝臣 宅持・・」や「池田朝臣宅持・・売(やかもちめ=女性)」などがあり、「宅持」という名前が流行したようです。 墨書土器の出土は、漆の付着物があることと合わせ、この付近に官衙かんが関連施設があった可能性を示します。
 
出土した墨書土器
出土した墨書土器
 
 
いへ」と「やけ
当時は、家族という人間集団を指す場合に「家」を用い、建物とその敷地を指す場合には「宅」を用いており、「家」と「宅」は明確に使い分けられていました。子供が生まれた時、その子供に家族が持てるようにとか、すまいが持てるようにという願いを込め、名前をつけたのでしょうか。
 
大伴家持は、748年春、越中国内を巡行し、各地で『万葉集』に残る歌を詠みました。本遺跡の北に接して「婦負河めひかわ」(巻17-4023)と詠まれた旧神通川が流れ、「石瀬野いわせの」(巻19-4145)や「伊波世野」(巻19-4249)と詠まれた古代新川郡石瀬郷は、本遺跡北方にあったとされます(藤田富士夫2004「古代越中国新川郡の「道」と「郷」に関する若干の考察」『敬和学園大学人文社会科学研究所年報』第2号)。
 
越中万葉ゆかりの地における「宅持」墨書土器は、大伴家持が巡行の際、近くを通った家持にちなんで、当地域に同じ訓み方をする「宅持やかもち」と名をつけられた人物がいた可能性を示す貴重な資料です。
 
 
参考文献
吉田孝 1983 『律令国家と古代の社会』岩波書店
(鹿島)


 
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