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紐列式木盾ひもれつしきもくたて(小竹貝塚おだけかいづか)
 

 
小竹貝塚は、日本海側最大級の縄文時代前期(約6000年前から5500年前)の貝塚で、呉羽丘陵北端(台地北西側)の山裾やますそから平野にかけて立地します(標高約3m)。2010年、縄文時代前期の埋葬人骨が91体出土し、全国から注目を浴びました。
 
2012年の発掘調査で、遺跡南東部で検出した弥生時代後期前半(約2000年前)の溝から弥生土器・木製品(くわ未成品みせいひん・板・棒など)とともに、モミ製の木盾の細片が2点出土しました。
木盾は、大きさが長さ7cm、厚さ1cmで、紐を通す孔列が3.5cm間隔で開けられている「紐列式木盾」と呼ばれるものです。
出土した組紐式木盾の一部と復元模型の一部比較
紐列式木盾(※参照「長野市水内坐(みのちまします)一元神社(いちげんじんじゃ)遺跡の盾」)は、盾の割れを防ぐために木目に直交して紐を通して補強するのが特徴で、弥生時代では一般的な構造の盾です。弥生時代前期に九州で出現し、中期から終末期には九州から北陸・中部高地まで分布します。木盾は、剣形・刀形などの武器形木製品とともに出土することが多く、本来の使用方法である戦いの防具以外に儀礼の道具としても用いられたと考えられています。

富山県内の木盾の出土は、2003年氷見市惣領浦之前そうりょううらのまえ遺跡の弥生時代後期後半(約1900年前)に続く2例目で、かつ最古の例です。
水内坐一元神社遺跡の盾(復元模型)
水内坐一元神社遺跡の盾
(復元模型)
小竹貝塚の木盾は、金沢市や長野市の木盾とともに木盾分布の最北域に含まれます。このことは、木盾を用いる戦いや儀礼の文化が北陸にも及んでいたことを表しています(鹿児島大学総合研究博物館橋本達也氏のご教示による)。
 
北陸へ波及した木盾は、富山から長野へと伝わったと推測されます。これは、北陸北東部(富山・能登)と北信地域(長野)は北陸北東部系の弥生土器の出土から交易などの日常的な交流が行われていた地域であり、木盾もその交流の中で伝わったものと考えられます。
 
このことは、弥生時代の小竹貝塚の集落が、弥生文化波及のネットワーク拠点のひとつであったことを物語っています。
 
北陸および分布周縁域の木盾出土遺跡
 
参考
富山市教育委員会 2013 『小竹貝塚発掘調査報告』
橋本達也 1999 「盾の系譜」『国家形成期の考古学』大阪大学考古学研究室
(堀内)


 
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